チャールズ・シュルツは、1922年11月26日、ミネソタ州のミネアポリスで父カール、母ディナの間に生まれ、セントポールで育った。生まれてまもなく、つけられた愛称はスパーキー。漫画に出てくる馬の名前、スパーク・プラグから取った名前だった。今でもスパーキーと呼ばれているシュルツは、漫画にちなんだ愛称と共に、まさに一生を漫画に捧げている。
幼い頃からシュルツは、自分に絵の才能があることを自覚していた。年上の従兄弟たちより絵を描くのが上手だったし、幼稚園の頃、ある先生にこう言われたこともある。「チャールズは、いつかきっと画家になるわね。」
「私が漫画家になるべく生まれて来たことは、なかなかみんなには理解してもらえません。本当に幼い頃から、私の夢は、新聞に連載漫画を毎日描くことだったのです。」と、シュルツは言っている。
アメリカが大恐慌に陥っていた1930年代、理髪店を営んでいたシュルツの父親カールは、懸命に働いて、店と家族を守り続けた。苦しい生活にもかかわらず、夕食にはシュルツ少年の大好きなパンケーキが並んでいた。さらに、息子にミネアポリスにある漫画の通信講座を受講させている。現在のArt Instruction Schools, Inc.である。
恥ずかしがり屋で自信のなかったシュルツは、受講中にさまざまな苦い経験をしている。たとえば、「子供の絵」を描いてみるクラスでは、気恥ずかしさのあまり先生に作品を直接持って行けず、Cプラスという平凡な成績をとったりした。 当時シュルツの母親ディナは、末期ガンに侵されていた。いつでも痛み止めの薬が買えるように、一家は薬局の上のアパートに引越すことになった。 しばらくして、シュルツは漫画の通信講座を終了したが、自分の作品を売り込むいとまもなく、第二次世界大戦に招集されてしまった。大好きな母親が亡くなったのは、入隊して何日もたたないうちだった。
シュルツにとって軍隊生活という暮らしの変化自体は決して悪いものではなかったが、人生の移ろいやすさを思い知らされることになった。しかしこの軍隊生活で自信をつけ、仕事への姿勢を学びとったことが、彼を後の成功へと導くことになる。彼は卓越した歩兵であり、軍曹としてまた、機関銃部隊のリーダーとして、任務を果たした。
この間、彼は芸術への情熱を発揮することはできなかった。しかし、彼のイラストレーターとしての才能は、軍隊でも知られるようになり、兵士たちが家族への手紙を書く時、兵舎での生活を漫画にして文面を飾ることが、彼の役目となった。 父のカールは、そんな息子宛に毎日手紙を書き続けた。
戦後、セントポールに戻ったシュルツは仕事を捜した。やむをえず、墓石の文字を彫る仕事を考えたこともあった。 シュルツの漫画家としての初仕事は、ローマカトリックの小冊子「Timeless Topix」の漫画に文字入れをすることだった。 クリエイティブな仕事ではなかったが、彼はこの仕事で、文字入れの技術を磨いた。
しばらくして、シュルツは母校「Art Instruction Schools」の教壇に就く。芸術のよき理解者である人たちに啓発されて、線画をはじめとする漫画家としての技術を身につけて行った。チャーリー・ブラウンという名の友人や、後に失恋することになる赤毛の女の子など、将来の仕事に影響を及ぼす多くの人たちと出会った。
自信がついたシュルツは、自分の作品を売り込みに行くようになった。粘り強い努力が実り、遂に「Saturday Evening Post」紙に数枚の一コマ漫画を掲載してもらうことになる。
そうするうちに、「St. Paul Pioneer Press」に「L'il Folks」という漫画を毎週1本連載する道が開けた。「L'il Folks」からはチャーリー・ブラウンやシャーミーといったキャラクターが生まれ、漫画家シュルツにとって記念碑的な作品となった。 シュルツに「L'il Folks」がここまで続くと思っていたかと尋ねると、彼は、「もちろん。続かないものは初めから描くつもりはなかったしね。生涯ずっとこの漫画を描き続けるような感じがしていたんだ。」と答えている。
アメリカ中の配信会社に「L'il Folks」を売り込みにまわり、最後にやっとユナイテッド・フィーチャー・シンジケート(UFS)のフリーマン氏の目にとまった。フリーマンは編集者として30年のキャリアを持ち、周囲からも尊敬されていた人物で、シュルツに一コマ漫画ではなく何コマかの漫画にしたらどうかと、アドバイスを与えた。自分自身もそう考えていたシュルツは、彼のアイデアに飛びつき、漫画を配信してもらうチャンスをつかんだ。
新しいコミックは、子供を題材にした従来のものとは、明らかに違っていた。一話完結の4コマスタイルで、子供の身のまわりに起こる小さな出来事を、深い眼差しで描いたストーリーは、編集者たちを魅了した。
彼は、ニューヨークのUFS本社を訪ね、5年間の契約を結ぶ。遂にプロの漫画家としてスタートを切ったのだ。その夜、シュルツはステーキで自らの門出を祝った。
しかし、彼が喜んだのもつかの間、問題が起きた。「L'il Folks」というタイトルは著作権の問題があり使えないという。当時すでに「L'il Abner」と「Little Folks」いう漫画が存在していたのだ。そこで シュルツの漫画のタイトルは、UFSにより「ピーナッツ」に変えられることになってしまった。

シュルツは、このタイトルにひどく落胆した。その後終生にわたって彼はピーナッツという言葉には、取るに足らないとか、つまらないというイメージがあることを気にかけていた。
そんな彼の気持ちとは裏腹にUFSと新聞各紙は、「ピーナッツ」というタイトルが気に入った。親しみやすい内容とどんな新聞にも掲載しやすいコンパクトな漫画のスタイル、それにぴったりの名前を大歓迎したのだ。「ピーナッツ」は、小さな世界を扱った大きな話題作として絶賛された。人生を深く見つめた内容や魅力的な素描力そのものには、あまり関心が向けられてはいなかったが、「ピーナッツ」は世界中で愛読される、大きな一歩を踏み出したのだ。
「ピーナッツ」のキャラクターが読者に愛されるようになるには、まだ数年の時間を要した。しかし、約60年を経た現在、「ピーナッツ」は世界で最も人気があり、息の長いコミックのひとつになっている。
連載を重ねるにつれ、シュルツは、アーティストとしての主張を通せるようになった。
ある編集者が、シュルツにスヌーピーの登場回数を減らすようにとアドバイスをしたことがある。シュルツはその提案を穏やかに断った。スヌーピーが、現在最も愛され、親しまれるキャラクターに成長したのはそのおかげだ。

連載当初は、シュルツも他の漫画家と同様コミックの下書きをUFSに見せて、了解を得なければならなかった。まもなく、仕上げた作品をUFSに提出するだけで済むようになった。そのうえ編集者は彼の了解なしには句読点さえ直さないことになったのだ。
時と共に「ピーナッツ」は新聞の連載コミックに留まらず、大きく活躍の場を広げて行った。それは、シュルツが最初に抱いていた夢を超える規模のものとなった。
1952年、ラインハート&カンパニー社のジョン・セルビー氏が「ピーナッツ」を単行本化したのは、ひとつの賭けだった。それが、出版界に漫画の単行本市場という新分野をもたらすことになるとは、彼自身も予想だにしていなかった。
1961 年、サンフランシスコ在住の主婦コニー・ブシェが、「ピーナッツ」のカレンダーを作ってみないかというアイデアを、シュルツに持ちかけた。彼の了解を得ると、ブシェは、自宅を抵当に入れて世界で初めての「ピーナッツ」スケジュール帳を作った。こうして世界初のピーナッツ・グッズが誕生した。
その後、スヌーピーのぬいぐるみをはじめ、Tシャツ、寝具、腕時計、歯ブラシ、その他多くの雑貨が発売されて、キャラクター市場を席巻することになる。
今では、ショッピングセンターで、スヌーピーとその仲間たちに気軽に出会えるし、ビデオも発売されている。学校の演劇発表やオフ・ブロードウェイのミュージカル、アイススケート場でのスヌーピーと仲間たちのダンスも見られる。コンピューターのCD-ROM上で、遊ぶことでさえ可能になった。
シュルツの一日は、いつも友達とのおしゃべりではじまった。そのあと、新聞を読みながらコーヒーを飲み、イングリッシュ・マフィンにほんの少しグレープ・ジェリーをのせて…。
これが何十年にも渡った、彼の気持ちよい一日の始まりだったのだ。
シュルツは、来る日も来る日も自ら新聞のコミックを描いた。その他にも電話の問い合わせに答え、商品の出来上がりをチェックし、ファンからの手紙にもすべて自ら目を通してきた。
こんなに有名になったことで、チャールズ・シュルツは変わったのだろうか?
否。シュルツは、一日の仕事をやり終えた時、人間として最も大切なことは、「家に帰って、小犬をかわいがってやることだ」と信じ、些細だが大切なこと日々積み重ねる人生を全うしたのだ。
1999年末、それまで約半世紀に渡って、75歳の誕生日のお祝いとしてとった休暇を除き、一日も休むことなく描きつづけたシュルツがペンを置く日がやってきた。それは健康上の理由だったのだ。癌治療に専念するということを理由にした突然の引退宣言を世界中が衝撃を受け、名残惜しんだ。病を克服し、シュルツが再びペンを取ることを多くのファンが祈った。そんな祈りもむなしくシュルツは2000年2月12日に永遠の眠りについたのだ。それは奇しくも最後の日曜版(2月13日付け)が発行される数時間前だったのだ。

シュルツの引退宣言後「ピーナッツ」は1970年代以降の作品で今なお配信され、世界中で愛されている。時代に左右されることのない「ピーナッツ」の世界は、ますます輝きを増しているのだ。
シュルツが作品を描きつづけたカリフォルニア州サンタローザの町には、2002年8月にシュルツの作品を後世に伝えるミュージアムが設立された。シュルツの精神は「ピーナッツ」とともに永遠に世界中の人々の心に生き続けているのだ。

















